「勉強」をどう捉えるのか

えらい大層なタイトルになってしまいましたが,それ程のもんではありません笑.

 

ここ最近は,研究会や研修会が続いていましたので,出張三昧でした.他の人から見ると,「勉強しにいく出張」だそうです.

 

修士課程や博士課程に進学したり,こういった研究職(教育職でもありますが)に就くと,「勉強好きだね~」と言われる事がよくありますす.きっと他の方も言われた経験があるのではないでしょうか.

 

「勉強」という言葉の定義が難しいのですが,僕にとって研究会に参加したり本を読んだりする事は,いわゆる小学校~高校教育で経験してきた「誰かにあらかじめ決められた内容を学習する」とはちょっと違います.(*高等教育は学ぶ内容の選択肢が初等中等教育とは比較にならないほど広がるので,自主性を尊重してあえて区別しました)

 

自分にとっては超シンプル.

 

「分からなかった事が分かるようになる」

 

「できなかった事ができるようになる」

 

「それが楽しい」

 

なんですよね.

 

この考えには,そもそも

 

「分かるようになりたい」

 

「できるようになりたい」

 

という気持ちが前提にあるのですが,逆に言うとこの気持ちさえあれば,世間一般から見た「勉強」は,完全に自動化!!され,再現性100%!!なのです(最近多い,怪しい副業広告のキャッチフレーズをマネしてみました笑)

 

「教育活動」って難しいですよね.成立させるためには,コンテンツはある程度あらかじめ用意され,構造化・系統化(システム化)される必要はありますし,それ自体を否定しちゃうと何も始まらない.

でも,そういうシステムの中で,「分かるようになりたい,できるようになりたい」という気持ちに対しても目を向けなければならない.

 

先ほどは自動化・再現性100%とか軽々しくいいましたが,実際のところそんな訳はなく,人間は色々な事から影響を受けて状態も山あり谷ありですので,工夫が必要です.

 

ただ,「分かるようになりたい,できるようになりたい」という気持ちは,多くの人が「え~まだ読むの?」「まだやるの?」といった「お勉強感」を,当の本人にもたせません.それは確実です.

僕自身,「勉強しにいっている」とは全く自覚していません(他の人と話す時は便宜上「勉強」といいますが).むしろ「欲求(知的)」を満たしにいっているほうが正解な気がします.

 

ちょっとメタな視点から,自分にとってそれは

 

「お勉強?」

 

それとも,

 

「知的欲求?」

 

と問いかけてみるのもいいのかもしれませんね.